私は私として時を生きる

私は単純な人間だ。 音楽をきいたあとは似たような歌をうたいたくなるし、美しいものを目にしたときはそれを絵や写真で残したくなる。
小説を読んだあとはこうしてなにか書きたくなる。
いつもならなにを言われてもやるきなんておきないのに
興奮したらそれを発散させないと次にすすめない。
そのたびに今の場所を散らかす。
時間が経って思い返すともうそのときの感覚はすっかり忘れてる。
寝つけない夜は考えることしかできず、悪いほうへ突き進む思考をおさえつけることもできないから悪循環で
そんなときの私は、ろくなことを言わない。だから他人に会うことだけは極力避けたい。避けなきゃいけない。
私は人に嫌われるのが、こわい。
他人の前では素面でいたい。好かれなくていいから。


これさえも恥ずかしくて人の目の触れないところに隠してしまうんだろう。
人は批判をするのが好き。そうやって自分を肯定して仲間をあつめて、身が固まれば組織を大きくして人を踏み台にする。
そういうのがきらい。

むかし、誰にも教えてない吐き溜めブログに「思うことは自由でしょ」と書いた。
そしたら見ず知らずの人(新着記事からとんできたのだと思う)が「書くのは自由じゃないでしょ」と吐き捨てていた。
私は最終的にそのブログを消した。
そんなことが何度かあって自分の文章を形にして、他人の目に触れる場所に残しておくことがなぜかできなくなってしまった。
敏感すぎる、容量が悪い、自由にやればいい、いろいろ言われる。
みんなたいてい正しいことを言っている。
でも私にはぴん、とこない。自分の都合のいいほうにしか解釈できないし、誰のことも信じられてないから。
傷ついてまでなにかを知りたいなんて思わない。

私は私にだけ理解されて保護されて、自分だけの狭くて暗い世界で生き永らえることを望んでいる。
そのさきにあかるいものを期待することは消耗にしかならない。ならなかった。
二十数年生きただけでなにがわかる?あなたなんかよりもっと不幸な人はたくさんいる。
そんな言葉はきこえない。きらいだ。

人の幸福は、はかれない。
私がうれしい、と思えたらそれがどれだけ切なくて胸をしめつけられるような事由でもうれしいこと。
かなしいのもおなじ、でもかなしいことのほうが自然でありふれてる。
私のかなしみは誰にも触れられない。どうか触れようとして傷をつけて去っていくのはやめてください。
みんな影を落として慰めあうことしかできない。他人に深く入りこめばそれだけ傷もふえる。自分の傷も深くなる。
この心は誰にも覗けない。壊れたらもとには戻らない、
だから私にしかわからない場所にしまって、一生、私だけの体温であたためてあげる。